2015年5月15日金曜日

STAP Cell fabrication

 いまさらの話題で恐縮ですが、小保方さんの事件について思うところを書いておきます。

 この事件は、もう既に、いろんな人がいろんなコメントをつけた後で、ぺんぺん草も生えてない状況ですが、まだあまり語られてない側面があるように思えてなりません。多くのコメントでは、事件当初のマスコミの取り上げ方だったり、理研の事件への対応(不手際)だったり、小保方さん本人のキャラであったりといった観点で語られることが多いと思います。

 もっと重要なのは、研究者の小さい世界にとどまらず、今現在”日本で”幅広く起こっている現象がこの事件に顕著に現れているという観点ではないでしょうか。そういった視点で語られものもあるにはあるですが、多くは「最近の若手研究者は、厳しい競争にさらされていて。。。(以下略)」といったものが大半で、競争や成果主義の否定へもっていく結論ありきの議論に帰結してしまっているよに見えます。

 研究者だけでなく仕事における成果の評価って、人間が社会で生きる上でとても重要な問題であると、最近つくづく思っています。人間関係が大事といいつつ、今の社会では、人間関係と正当な成果の評価って二律背反の概念になってしまっているように思います。具体的にいえば、自分に自信がない人が「上司(先生)にぺこぺこしてれば、生きていくことを無条件に許される。」なんてことを真剣に考えて、そんなことを考える人が多数になってしまったら、その社会はどうなるでしょうか?ってことを考えてみて思ったことですが、

1. 能力のない自信のない一部の人がペコペコをはじめる。
2. 能力がある人がはじかれるのと裏腹に、実際にその一部の人が生き残るのを、周りの人が認識し始める。
3. 他の人たちもペコペコをはじめる。
4. ペコペコを大多数が始めたら、自信の能力や成果による集団内の評価は意味をなさず、むしろペコペコしてないというマイナス評価になる。
5. 集団が没落する。

小保方さんの事件から見出せるのは、上のプロセスの4番目の現象が少なくとも理研の中、小保方さんの周囲では起こっていたのではないかという懸念です。だから、あんな杜撰な内部評価で大変な問題を引き起こしてしまったのではないでしょうか?

 マスコミの伝え方に対する違和感や、まだ語れてないことがあるのではと感じる原因はここにあると思います。多くのコメントは、どこか遠くの特別な理研内部で起こった特別な問題であるかのように思っている、あるいは思いたい、とか思わせようとしていると印象を受けます。雑誌に論文を投稿するのは、理研の人だけではないですし、東大で同時期に発覚した大規模な論文不正もありました。民間の人だって論文は投稿するし、不正だって数知れず発生してます。自分も目の当たりしてきました。自分が見た民間のケースでは、明らかに上に書いた集団の没落プロセスが進行するのと平行して不正も発生していたし、周囲の見過ごしも発生してました。この事件を多くの人が、自分と社会を取り巻く現在進行形の問題として認識することが大切なのではないかと思っています。明らかに、小保方さんの事件をおこしたのは自分だという自覚が一人ひとりに必要なのです。社会人にも学生にとっても。理研のせいにしたり、官邸陰謀論を持ち出せば済む問題ではありません。

 また、同様のマスコミの報道姿勢は、佐村河内さんの事件でも見受けられました。そちらで受けた同様の違和感は、マスコミの主張する「ちゃんと契約をしていればゴーストライターでも問題ない」という主張です。多分、多くの人は自分自身で出した成果でないのに自分でやったということ自体が社会の評価のプロセスを歪めるという点で害をなすと考えると思うのですが、マスコミの中にゴーストライターが必要悪として存在しているという現実が、マスコミ自身をこの事件を自分にひきつけて考えることを阻害してしまっているのかと思います。

マスコミ特にテレビ自身も没落のプロセスに随分前から入ってしまっていたのかなと、この2つの事件を通して改めておもいました。





 


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